ジャン=リュック・ナンシー「集積について」 (『フクシマの後で』所収)

フクシマの後で: 破局・技術・民主主義

フクシマの後で: 破局・技術・民主主義

このナンシーの技術論をどう読んだらいいのだろう。ナンシーは「技術は自然を代補する」という一文によって、デリダの「代補(シュプレマン)」という概念を召喚するところから始めるけれど、この概念自体が自然と技術の関係の審級に支えられているとし、その関係の蝶番に「火」というエネルギーを見ることで「技術は自然のうちに自らの場を有している」とする。


ナンシーは脱構築(デコンストリュクシオン)からデコンを取った集積(ストリュクシオン)という概念を用いる。それによってハイデガー的な技術論や構築/脱構築といったパラダイムとは別の場所で思考をしたがっているようだ。ナンシーによれば脱構築は構築の中に胚胎されていたのであって、建築的ないし構築的なパラダイム脱構築も含む)は自らを超-構築して、ストリュクシオン(集積)に反転するという。 


ストリュクシオンないしエコテクニーと呼ばれる世界は、現前なき現在の、共出現(コンパレートル)の、目的が散乱した無際限化の世界であり、そこでナンシーはデリダの用語では「誤配」を持ち出してくる。

 

結論は書かれていない。この無際限化の運動は、止まるべきなのか、どこまで行くのか。ナンシーは問いかけで終える、この無際限化は自己破壊的なものなのか、あるいは、このストリュクシオン(集積)を通じて「《意味》をどのように認めるかを見出すことになるのか」と。